北穂高岳〜涸沢岳
涸沢岳への石稜歩き

<2日目>
 携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。4時。辺りはまだ暗い。ジャケットを着てテントをはい出す。穂高の上の明けの明星が美しい。北穂のてっぺんの小屋の明かりが輝いていた。パンにスープの簡単な食事をすませて、身支度をし、6時前にテント場を出発。涸沢小屋へ続く雪渓を歩き、小屋手前から沢を右に登りはじめる。左奥にはニッコウキスゲが群落を作っている。

 先が長いので急坂をゆっくり登る。ピッチの早い熟年女性に追い抜かれた。ご主人は後から登ってくるそうだ。なるほど、夫婦でも一緒に登ることはない。自分のペースに合わせて登るのがベストなのだ。視界を遮る物はなく、大展望を楽しみながらぐんぐん高度をかせぐ。後方下に涸沢ヒュッテの赤い屋根とテント群がどんどん小さくなっていく。

 左にトラバースし、2・3の小さな岩場を登る。ここで、ストックをザックに付け、両手が使える体制にする。道は左にカーブし、いつしか目の前に迫った南稜コルに向かう。南稜コルへはクサリと梯子を越える。梯子を登り切ると、眼前に前穂、奥穂、涸沢岳の峰が大きい。さわやかな風が吹き、気持ちがいい。多くの登山者が休息中。少し登って岩の上で小休止。ザイテングラードを登る登山者がよく見える。

 すばらしい展望の中、南稜をジグザグに歩く。何度か立ち止まって中判カメラのシャッターを切った。ザイティングラードや穂高岳山荘の位置と比較しながら登っていく。かなり高度をかせぎ、南峰が大きく近づいてきた。東には雲の上に八ヶ岳が頭を出している。右には北穂山頂と小屋が見える。テント場を過ぎ、たくさんの人が休息している涸沢岳分岐点を通過。ここにザックをデポして山頂を往復するパーティーも多いが、距離も短いので鞍部の雪渓を渡り山頂へ。

 山頂に着いて声が出る。「槍だ」 大キレットの向こうに槍ヶ岳がそびえる。20年以上前に登った時と全く同じ光景が目の前にあった。昨年泊まった槍平山荘から駆け上がる稜線が美しい。南には滝谷の大岩壁が立ち上がり、その向こうに奥穂や西穂へ続くジャンダルムなどが望める。北穂高小屋は山頂東側に張り付いている。小屋のテラスは大勢の登山客で賑わっていた。初代の主人がここまで大黒柱を担ぎ上げた話しを以前テレビで見たことがあるが、その苦労は想像を絶するものであったに違いない。テラスで飲んだ売店の缶ジュースがおいしかった。

 缶ジュース2本を補充し、涸沢岳までの縦走に備えた。山頂で槍の姿を脳裏に焼き付け、先ほどの涸沢岳分岐点まで戻り、ここから「奥穂高岳」の表示に従って右に登る。南峰のピークからいよいよ石稜歩きが始まる。

 まずは岩に張り付いて岐阜県側に一気に下る。前方には滝谷から巨大な岩のドームが立ち上がっている。急な岩壁の下りは背中を谷側にして三点支持で慎重に下った。西には笠ヶ岳が時折雲から頭を出す。後方には槍ヶ岳が見える。足がかりが僅かな横ばいや両側が切れ落ちた馬の背のような岩歩きなど、下を見ると足がすくむような場所が次々と現れる。

 道はドームの涸沢側を巻き、再び岐阜県側の石稜下りが続く。下を見ると、右之俣へ合流する滝谷の河原が見える。昨年、槍ヶ岳へ行くときに渡ったところだ。真っ直ぐに切れ落ちており、落ちたら右之俣まで真っ逆さまである。岩には手足をかける部分があり、その箇所を確認しながら下る。難しいところにはクサリやピンが打ち込まれており、慎重に下れば問題はない。

 1時間以上下って鞍部手前のピークに出たところで小休止。缶ジュースがうまい。目の前にはこれから登る涸沢岳の岩塊が立ちはだかる。梯子が見える。キラキラ輝くものはクサリのようだ。何人かの登山者が見えるが、動きが遅い。かなりの難コースと思われた。

 ここから涸沢側を巻いて鞍部に下り、登りにかかる。昼食時間になり、空腹で登り切る自信がなかったので、ちょうど涸沢槍手前の、これからハシゴ・クサリに取り付く寸前の道の脇で昼食にした。コッヘルでラーメンを作った。こんなところで自炊をするパーティーなど、まずいない。通り過ぎる登山者から声をかけられた。みなさん、かなり苦しそうに登っている。苦しいのは我々だけでないと安心。「こんなに苦しいのに、なんで山に登るのでしょうね」と、笑いながら1人の単独登山者。その答えは、この山を登り詰めた先にある。見上げれば、黒い岩壁が垂直に立ち上がっている。

 30分ほどで手短に昼食を終え、登りにかかる。この先、ハシゴ、クサリ、岩壁登りが山頂まで続く。ミヤマオダマキやイワギキョウが美しい。1ヶ所、かなり長いクサリ場があるが、ここも補助的にクサリを使う程度で登れる。涸沢岳への登りは浮き石が多く、落石は要注意。手を掛ける岩の中には抜けそうなものがあり、選びながら登った。段差が大きく、膝をついて登った箇所もあった。また、涸沢側で滑りそうな斜面の岩を通過する所もある。ここにクサリが欲しいところだ。

 この頃からガスがわき上がり下界が見えなくなった。下が見えないほうが、精神的には楽。涸沢側の急な登りのところで渋滞待ちをしてると、前の男性に「ライチョウの親子がいますよ」と教えてもらった。1m横に4羽の子を連れたライチョウが草をついばんでいた。この急な斜面でよく落ちないものだ。山頂が近くなり、岩の間にシロツメクサやシコタンハコベ、タカネツメクサがたくさんあったが、写真を撮る余裕がない。

 ピンが打ち込まれた岩の溝を登り切ると、そこは涸沢山頂手前。苦しい登りだっただけにこの達成感は大きい。涸沢岳は2年前にザイティングラード経由で登っており、なつかしい場所である。2年前にはガスで北穂が望めなかったが、今回は2つの特徴あるコブがガスに煙り異様な姿を見ることができた。あそこから歩いてきたと思うと、感動である。

 山頂で東京からの単独男性にいただいたチョコレートがおいしかった。奥穂はガスに包まれているが、時折頭を見せる。時間は1時。奥穂をピストンするか、穂高山荘でビールを飲むか。2年前の奥穂はガスで全く展望がなかったので登ろうかと思ったが、今回もガスが流れているし、前穂にはいずれ登ることになるので、奥穂はその時に見送り、後者を選択した。

 穂高山荘の岩のテーブルを確保して、ビールを飲んだ。最高のビールであった。ここへはまた来ることを約束して、ザイティングラードを下った。穂高山荘をめざす多くのパーティーとすれ違った。タカネヤハズハハコのピンクがかった花弁が美しい。前方左には、今日の朝登ってきた、南稜のジグザグ道が見える。北穂から涸沢槍へと、カール上部をぐるりと歩いてきた稜線もすばらしい。

 ザイティングラード取り付きはハクサンイチゲとシナノキンバイの美しいお花畑が広がっている。見上げれば、涸沢岳に向かって伸びる緑のラインにシナノキンバイの黄色い花が散りばめられ、実にきれいだ。大きなシュラフをザックに詰めた若い男女の外国人パーティー3人に出会った。長野県に住んでいて、カナダ出身だと日本語で話してくれた。昨日は横尾で泊まり、穂高山荘をめざしている。日本の山を思う存分楽しんでいる様子だった。

 涸沢槍を頭上にカールを斜めに横切り、白い花の咲くナナカマドの中を抜けて涸沢小屋の前に出た。小屋の左にはニッコウキスゲやトリカブトのお花畑がきれいだ。テント場まで戻り、夕食はヒュッテテラスでとることにした。このヒュッテにはおでんの屋台があり、これがおいしい。

 同じテーブルでお会いした富山県の熟年ご夫婦は、退職後、頻繁に山歩きをしてみえるそうで、車内泊、テント泊で安価に山行を楽しんでみえた。「毎日サンデーですから」と、ビールやウイスキーを楽しみながら、1時間ほどいろいろな山の話しをした。隣では若者達が大宴会。1日の終わり、山で過ごすこの時間が好きだ。この日、夜中に満天の星空を見ることも忘れてテントの中で熟睡した。

<3日目>
今日もモルゲンロートが美しい。三日月が穂高の山に沈んでいく。初日に別れた北穂泊まりのHさんと落ち合い、パノラマコースで下山する計画をしていたが、早く家に帰らなければならない用事ができたことから、ヒュッテでHさんと再会した後、すぐに横尾経由で下山した。

 横尾で昼食をとり、上高地に向かった。照りつける太陽に気温はぐんぐん上昇し、さすがに暑い。横尾からの林道歩き3時間はさすがにこたえた。休息毎にアイスクリームやジュースで生き返り上高地へ。シーズン最盛期、平湯行きのバスを待つ長蛇の列に並び、かなり待ってバスに乗った。平湯バスターミナルでアカンダナ駐車場行きのシャトルバスに乗り換え、駐車場に着いたときには4時を回っていた。

 この夏、不安定な天候であるにもかかわらず、3日間、最高の天気に恵まれ、充実の山歩きができた。テント泊のすばらしさも体験できた。文句なしの今年の夏山。日焼けした首筋が心地よく痛い。
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