トレースマップはカシミール3Dで作成
*この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用しています。(承認番号 平21業使、第478号)
*黄色の点線は自転車のトレース

虎御前山・岡山 (224m 170m 滋賀県) 2010.3.14 晴れ 3人

中野登山口駐車場(10:49)→多賀貞能陣地跡(10:54)→矢合神社(10:57)→蜂屋頼隆陣地跡(11:05)→展望台(11:08)→NTT電波棟北・滝川一益陣地跡・三角点(11:26)→堀秀政陣地跡(11:37)→虎御前山山頂・織田信長陣地跡(11:45-13:15)→木下秀吉陣地跡(13:28)→柴田勝家陣地跡(13:35)→北登山口(13:45)→岡山東登山口(14:02)→中島城址(14:14)→岡山山頂(14:23-14:41)→岡山南登山口(14:49)→<自転車>→中野登山口駐車場(15:02)

 その昔、長尾山と呼ばれる山の泉のそばに、たいへん美しく気立てのよいお姫様が住んでいました。その名前は虎御前。山の麓に住む世々開(せせらぎ)長者と結婚し、身ごもりました。そして、生まれてきた子供は、なんと15匹の人間の顔をした蛇。姫ははじめて自分が蛇であることを知り、我が身を嘆き、山の東にある女性淵(せみがふち)に身を投げて死んでしまいました。姫の子供たちは、成長して人間の姿になり、周囲の15の地域を治める立派な大人になりました。以来、いつの頃からか、長尾山は虎御前の名にちなみ、「虎御前山」と呼ばれるようになりました。

 昨年の夏、小谷山に登った時に、戦国時代の壮大な歴史絵巻を紐解いた。浅井氏と信長の小谷山での戦いを語るには、虎御前山の存在を忘れてはならない。虎御前の美女伝説が伝わるこの山には、小谷城攻略を目論む兵どもたちが陣地を築いた場所であり、小さな山のあちこちには今でも歴史的な遺構が散在する。

 元亀元年(1570年)姉川の戦いで勝利した織田信長は、横山に城を築き、さらに浅井氏を攻めるため、元亀3年夏に浅井氏の居城である小谷城の南の低山「虎御前山」に短期間で築城。秀吉などの名将たちが親方の陣地を囲む。小谷山を眼前に、信長の浅井攻めの準備が整い、舞台はいよいよ小谷山に移る。

 小谷山に登って以来、虎御前山を登らなければならない山のリストに加え、山行のチャンスを待った。そして、伊吹山の雪が消え始めた3月半ば、MIZUさんの参加を得て、早春の虎御前山を目指す。国道365号線を西進し、右前方に小谷山が近づき、北陸自動車道が見え始める。北陸道の向こうに見える低い山が虎御前山である。

 小谷城址の入口を右に見て、「郡上」の信号交差点を左折し、すぐに北陸道の下を抜ける。今日の山行は、虎御前山と併せて岡山の歴史探訪も計画した。岡山は北陸本線河毛駅の北に位置しており、虎御前山の北登山口から徒歩で20分ほどのところに岡山東登山口がある。虎御前山へは一番南の中野登山口を起点にすると、岡山から下山した後、中野登山口に戻るには徒歩で1時間近くかかることになる。このため、岡山下山口付近に自転車をデポすることにした。
 
 北陸道を潜った次の信号交差点を北上し、再び北陸道の下を潜って岡山東登山口を確認。細い農道を西に向い、岡山南にある谷田神社の近くに自転車を置いた。虎御前山中野登山口駐車場に向かって車を走らせ、河毛駅前を通過。数人の登山者が駅前を歩いている。小谷山への登山者のようだ。小谷山や虎御前山は鉄道を利用して登れる山でもある。
 
 田園の中、虎御前山を左に見ながら南下。山の上にはNTT電波棟や教育キャンプ場の施設が見える。虎御前山の西に突き出したような小さな林の中に観音堂があり寄ってみた。観音堂の入口にふきのとうが1つ顔を出していた。山の西側の道をさらに南下し、中野集落に入った辺りから虎御前山の標識に従って集落の細い道に入る。登山口の駐車場へは集落の中で左折すればたどり着けると思ったが、あまりにも道が狭いので直進して橋の手前で左折。次の交差点で左に曲がると虎御前山公園の駐車場に着いた。10台以上置ける広い駐車場で、登山の身支度をする人もみえる。靴を履き替えていると奈良県から来たというパーティに、この場所まで最も分かりやすい道を聞かれたが、こちらもよく分からない。ここに到達する道が分かりにくいのは誰もが同じようだ。
 
 出発しようとして、問題発生。デポした自転車の鍵が見当たらない。車のキーをポケットから出した時に落としたようだ。実はこの失敗は昨年、呉枯ノ峰で自転車をデポしたときにもやっている。車のキーを出した観音堂まで戻って鍵を見つけた。この騒動で出発が11時近くに。駐車場から灯篭のある階段を登る。階段脇に虎御前山案内図を見て、矢合神社の大きな鳥居を潜る。ここで道が二手に分かれており、右へ進む。

 桜並木にある藤棚のトンネルを歩き、東屋を過ぎると多賀貞能陣地跡の石碑がある。この先、名将の陣地跡にはこの石碑と案内版がある。すぐ先には矢合神社があり、神社の名前に由来すると思われる矢を射る銅像が境内に立っていた。お賽銭を投げて、教育キャンプ場のゲートを潜り、落葉の積もる遊歩道を歩くと、蜂屋頼隆陣地跡の高台に出た。北には展望台や教育キャンプ場、これから歩くNTT電波棟、さらに奥には小谷山が見える。
 
 陣地跡を下って展望台に登ってみた。東側は麦畑の緑色が眩しい広大な田園地帯の向こうに伊吹山、南には霊仙山。鉄塔の高圧線が邪魔である。西には琵琶湖や山本山が望めた。
展望台を下りて、左に岩屋寺、右の高台に教育キャンプ場の施設を見ながら歩くとゲートがあり、車両進入禁止となっている。ゲート脇を抜けて、右山・左山で舗装道路をS字に歩く。道脇の潅木に赤い小さな花を見つけた。帰って調べてみるとウグイスカグラだった。

 前方に巨大な電波棟が近づいてくる。右手の切り開きからは伊吹山が美しい姿を見せる。電波棟へ回り込むところから山道が稜線上に延びており、ここに滝川一益陣地跡の石碑が立つ。左の雑木林の中に3つほどの小さなピークがあったので、一番南側のピークに登ってみると、ササの中に三角点があった。
 
 山道に戻って山頂を目指す。ここからは山道となり、ようやく山歩きの雰囲気となる。なだらかな天然林の道は気持がいい。数分歩くと堀秀政砦跡の標示があり、左の小ピークに登ってみると石柱の立つ落ち葉に埋もれた陣地跡があった。この山には古墳時代から奈良時代にかけての古墳や前方後円墳の遺構が数多く残っており、陣地跡の盛り土は古墳の跡らしい。北に見える盛り上がりが山頂のようだ。堀秀政の陣地跡の標高が210mであることから、山頂までの標高差は14mしかない。
 
 山頂に向って尾根を歩く。落ち葉の地面からツヤツヤした大きな葉があちこちで芽吹いていた。どういう名前の植物なのだろうかとMIZUさんと話しながら歩く。そして、もう1つ、この山に多い植物があることに気付いた。落葉の高木に常緑のつる植物が巻きついている。主にアベマキに巻きついている。一見、観葉植物のアイビー(ヘデラ)に似ている。葉の形は切れ込みのないポプラ状のものから切れ目のあるツタ状のものまで変異がある。このつるに巻きつかれた木は日照不足のせいか、下枝がほとんど枯れ、一番上でわずかに枝を広げている。枯死した木も見られる。巻きつかれた木がたくさん見られ、異様とも思われる光景が続く。見上げれば、まるで踊る巨大モンスターのようにも見える。今年の大雪で幹が折れ、つる植物と一緒に地面に落下している木もいくつか見られた。黒い実がついている。帰って調べてみるとキヅタでアイビーの仲間であることが分かった。キヅタのモンスターはこの山の特徴でもある。
 
 キヅタを見上げながら歩くと、虎御前山山頂に到着。落ち葉に覆われた広い山頂にある石柱には織田信長陣地跡の文字。木々に囲まれた山頂ではあるが、北には樹間から小谷山が望めた。信長はここに陣取って小谷山の浅井氏攻略に采配を振っていたに違いない。そんな想像をしながら、戦国時代にタイムスリップしたような気分で小谷山を眺めた。

 山頂では数人が昼食中。記念写真を撮って、広場の一角でランチにした。メニューは味噌煮込みうどんとチャーハン。風もなく暖かな陽だまりでおしゃべりをしながらゆっくりとランチを楽しむ。ヒオドシチョウが飛び回り、シートやコッヘル、さらに帽子にもとまって羽を休める。どうやらヒオドシチョウの縄張りに陣取ってしまったようだ。時折やってくるもう一匹のヒオドシチョウを追って青空高く舞い上がる蝶。頭上にはトビが輪を描き、シジュウカラがさえずりながら枝を渡る。MIZUさんが小さなスケッチブックを取り出して、山頂の風景を鉛筆でスケッチ。春うらら。ゆっくり流れる時間の中で、コーヒーを楽しんだ。先行のパーティはこれから小谷山へ向うと、北へ下って行かれた。
 
 1時間半のランチの後、誰もいなくなった山頂から北登山口を目指す。ロープ付きの急斜面を下って、キヅタの林を歩く。この辺りにもウグイスカグラの咲き始めた花が見られた。山頂から10分ほど歩くとピークへの登り。そして木下秀吉陣地跡の曲輪へ。小谷山はますます近くに見える。木下秀吉の陣地跡付近は、土塁や堀などの遺構が最も良好に残っている。陣地を後に、遺構を見ながら下る。柴田勝家陣地跡を通過して、小谷山を見ながらどんどん下る。眼下に北陸道が見え、ロープのある赤土の急斜面を下っていくと車道に飛び出した。ここが北登山口であり、車で通過した場所である。

 車道を渡ったら北陸道に沿って西に歩き、道路下を潜って田園の中、小谷山を見ながら岡山東登山口を目指す。登山口は工場と思われる建物の左奥にあった。標示はない。岡山は小さな山であり、登山口からひと登りで平らな稜線歩きとなる。落ち葉の道を歩き、一旦下る。正面に見える丸い山が岡山である。鞍部まで下ると登山道の草刈をしている人に出会った。道を覆うササを刈り払っているところで、地域住民の力で歴史の山が守られている。

 再び登り返し、開花間近のショウジョウバカマを見ながら折り返すように戻ると中島城址に着いた。浅井氏の家臣中島宗左衛門直親が守っていたといわれ、南の切り開きから先ほど歩いてきた虎御前山が北陸道の向こうに見えた。ちょうど北陸道のラインが織田氏と浅井氏の陣地を分けていたようだ。中島城址を後に再び次の鞍部まで下る。草刈やごみ拾いをしていた休息中の大勢の住民の皆さんに挨拶をして、丁野山城跡の表示に従って登りにかかる。葉を落とした高い落葉樹の林を登り詰めると、城跡に着いた。
 
 岡山は丁野山とも呼ばれ、標示板には1573年に浅井氏の加勢に来た朝倉勢が立てこもっていた山であると書いてある。疎林で展望があり、西には琵琶湖に浮かぶ竹生島や山本山が近くに見えた。眼下を走る北陸本線の列車がミニチュアのようだ。人工的に造られたと思われる北側の溝を渡ると三角点があり、その前で記念写真を撮った。たかが170mの山であるが、落ち葉に覆われた明るい山頂は実に気持がいい。この山に登ってよかったと思った。ここでもゆっくりとお茶を飲みたいところであるが、時間もないので、登ってきた道を引き返した。
 
 山頂直下で先ほどゴミ拾いをする人に南登山口への道を尋ねると、「鞍部からまっすぐ南へ下ってください。右の道は行き止まりです。」と教えていただいた。鞍部には石仏があり、弥勒寺跡の標示板がある。ここから踏み跡の濃い南への道を下るとすぐに田園の中の農道に出た。河毛駅まで850mの標示がある。つくしがたくさん出ている道を谷田神社まで歩いて自転車を回収。自転車で15分ほど走って車まで戻った。
 
 虎御前山・岡山は低山でありながら、歴史探訪や展望、自然観察などが楽しめる。小谷山と組み合わせれば1日コースとなる。今回、シュンランの群落にも出会うことができたし、夏にはイチヤクソウの花を見ることもできそうだ。次回は、さらに時を戻して、横山の歴史散策をしてみたい。
 帰路、伊吹山麓で早春の花ウォチングを楽しみました。

★虎御前山からの展望


★早春の花

(ウグイスカグラ・ショウジョウバカマ・キヅタ・イワナシ・シュンランは虎御前山・岡山で撮影。その他は伊吹山麓で撮影)

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