八ヶ岳 2日目









<2日目>

 「キョン」「キョン」というシカの鳴き声で目が覚めた。午前3時。テント場は闇夜に包まれている。シカの声を聞きながらウトウトしていると4時の携帯アラーム。外に出てみると頭上は満点の星。久しぶりに見るスバルが明るい。いくつかのテントでは既に身支度が始まっている。地蔵尾根にライトが見える。ご来光目当てのパーティーのようだ。
 
 テントの外で昨夜の鍋の残り汁で雑炊とうどんを作って早い朝食をとる。明るくなり始めた中で、コッヘルをきれいにして、ガスストーブと共にザックに詰めた。隣のテントのご夫妻に挨拶をして出発。計画よりも30分早く出発できた。
 
 数分歩いて分岐点まで行き、靴紐を締め直す。昨日下見をした登りたくない文三郎道に取り付く。バテることを予想して、歩きにくいジグザグ道をゆっくりペースで登っていく。階段に取り付くと展望がよくなり、左手には頭をガスに隠した阿弥陀岳が大きい。振り向けば、横岳から硫黄岳も同じように頭に雲がかかっている。今にも雲が稜線から崩れ落ちそうな幻想的な光景を見せる。硫黄岳の上には傘雲が浮かぶ。
 
 階段を登り切ってなだらかに歩き、前方に再び急階段を見る。稜線から下りてくる登山者が見える。クサリの急斜面に取り付きクランクして鉄網階段へ。下山時の高度感はなく、昨日下りた同じ道とは思えない。大岩の横を通過。ホシガラスが目の前に飛んできた。中岳の三角形がシルエットとなって阿弥陀岳と対照的に見えるのが面白い。左後方には槍穂が雲海の上に並ぶ。向こうからも八ヶ岳が雲海の上に浮かんでいるに違いない。
 
 クサリに掴まって荒れた斜面を登ると、もう分岐点はすぐ近くに見えた。あっけなく登ってしまった。下山してきたご夫妻と挨拶を交わす。早朝に登ってご来光を見てきたとのこと。稜線が近づくとガスの中に入った。今日の朝はガスが無いと思っていたが、予想外。山頂は晴れていることを期待して分岐点から赤岳を目指す。
 
 10分ほど赤い道を登り、ミヤマツメクサを見ながら南側へトラバースして岩場に出た。右を見て思わず声が出た。いつの間にか消えたガスの岩場からは赤岳から権現岳へ続く南の尾根に雲がかかり、その向こうには南アルプスが雲海の上に頭を出す。北岳、甲斐駒岳、仙丈岳・・・南アルプスの地図を頭の中で広げる。
 
 赤い矢印に従って赤岳の南側からクサリ場にかかる。八ヶ岳の主峰、赤岳は人を寄せつけないかのように、山頂直下を岩壁で囲む。ストックをザックにつけて、鉄杭に繋がれたクサリをたどる。見上げれば、尖った岩が天を突く。チシマギキョウの咲く岩場を左山で登って行く。傾斜が増してくるが、阿弥陀岳のように岩が不安定な場所は少なく、軽快に登る。振り向くたびに権現岳へ続く峰の雲が消えている。権現岳には美しい笠雲。
 
 下山してくる登山者と情報交換をしながら、赤い岩溝をよじ登ると西側が開けた。雲の切れ間から中央アルプスが遠望できる。阿弥陀岳のガスが消え始め御嶽山や乗鞍岳も姿を現す。さらにクサリは続き、岩の上に出ると、ダメ押しの感動。雲海の中から富士山が頭を見せる。逆光に輝く雲海は飛行機から見る雲と同じに見え、空と雲の境の地平線は丸いのがはっきりとわかる。地球は丸い。
 
 岩を一登りすると赤岳山頂。赤い岩と青い空がすばらしくきれいだ。山頂には10名以上の登山者で賑わっていた。まず記念写真。そして展望を楽しむ。阿弥陀岳の雲もすっかり取れていた。先は長いので10分ほどで山頂を後にすぐ下の赤岳頂上小屋まで下りて、トイレに寄る。これから歩く横岳、硫黄岳の稜線がきれいに見える。横岳の荒々しい岩山となだらかな硫黄岳が対照的に並ぶ。朝日を浴びて稜線の東半分の緑が眩しい。
 
 眼下に見える赤岳展望荘までは、小ピークを経て一気に急降下する。小ピークはクサリ場で東側を巻く。そして、赤い斜面を太いクサリにつかまって一気に下りる。息を切らして登ってくる人に道を譲りながら、落石に注意して展望荘を目指す。こんなところをいつか歩いたような気がした。そう、オーストラリアのエアーズロックのイメージに似ている。岩が赤いのも同じだ。
 
 10分ほどでクサリ場を下りて展望荘に着いた。振り向けば今下りてきた赤い急斜面が聳え、その向こうには頂上小屋を乗せた赤岳が大きい。ガスが沸き始めた稜線を5分ほど歩いて地蔵尾根の分岐を通過。地蔵尾根を見下ろす赤い頭巾のお地蔵さんが佇んでいる。この分岐を過ぎると正面に三角形の岩山が迫ってきた。二十三夜峰から日ノ岳の山塊のようだ。奇岩を見ながら梯子を登って東側へ。のぼりの途中で稜線に出るとすばらしく展望がいい。赤岳から阿弥陀岳が大パノラマで迫る。雲の影が山肌を這う。足元には花の終わったチョウノスケソウが綿毛を広げている。
 
 さらに岩登りが続く。行く手には軍艦のような巨大な岩が稜線に立つ。この大岩付近が日ノ岳山頂のようだ。この右を巻いて稜線への岩壁の登りが始まる。2列に続くクサリを追って青空を目指す。稜線に近づくと植物が多くなり、タカネシオガマやミヤマミミナグサが見られた。ここまで蕾しか見かけなかったトウヤクリンドウが咲いていた。花を楽しみながら稜線に出ると、再び大岩が立つ。これが鉾岳のようだ。こんどは西斜面に回りこむ。切り立った斜面をクサリにつかまって下りる。高度感が気持ちいい。下りきったところで10mほど先の崖ぷちまで行ってみたが恐ろしい。
 
 鉾岳を巻いて稜線に出る。石尊峰と呼ばれる辺りを通過して、岩場を歩き、三叉峰を越えると、前方に重なるように大きなピークが見えてきた。後方のピークが大権現、すなわち横岳である。横岳はこの付近の稜線一帯のことを言うようであるが、一般にはもっとも標高の高い大権現が横岳と言われている。下って、大権現へ登り返す。イワヒバリが道案内をしてくれる。後方には、今歩いてきた横岳南部の岩稜が男性的な姿を見せる。
 
 最初のピークから僅かに下って赤い梯子を登ると標柱の立つ横岳に到着。雲が湧き上がっているが展望はよく、ジョウゴ沢の火口が口を開ける硫黄岳が目の前に見えた。コースタイムは計画より1時間ほど早い。真下に大同心の巨岩が突き出ており、先端までの道が見えた。行者小屋から見るとあの上に立てるなど考えられないが、稜線から大同心に行けるようだ。正式なコースではないため、進入は禁止されていると聞いた。
 
 10分ほど休んで、クサリのついた痩せ尾根を下る。東側から西側へと回り込み、大同心を眼下にクサリ場を垂直に下りる。次は、岩壁のクサリを伝って横ばい。緊張感を岩壁の草花が癒してくれる。再び東側に回りこんで2列のクサリがある岩壁に張り付いて横バイ。この辺りが奥ノ院と呼ばれる岩峰であろうか。ここをクリアーすると、稜線の先に丸い山が現れる。台座ノ頭と呼ばれる山で、今までの様相とは一変する。大同心を真下に見なが稜線を歩く。後方には、横岳がガスに霞み、阿弥陀岳の後ろには積乱雲ができ始めていた。稜線を越えて飛んできた大きなセミが手にとまった。羽が透明なエゾゼミである。針葉樹林帯でたくさん鳴いていたが、こんな高いところまで飛んでくることに驚いた。
 
 台座ノ頭を左に巻く道に向かうと、砂礫の斜面にたくさんのコマクサが咲いていた。この数には圧倒される。燕岳に勝るとも劣らぬ群落である。花期はやや盛りをすぎているが、それでもきれいな花がたくさん見られた。花色の濃淡が固体ごとに違っているのが面白い。コマクサを見ながら台座ノ頭を巻くと、青い屋根の硫黄岳山荘が見下ろせた。広い稜線をジグザグと下って山荘へ。計画ではここで昼食の予定であったが、10時前なので、トイレ休憩とし、硫黄岳山頂でランチにすることにした。山荘で調達した冷たいジュースで生き返った。横岳付近の稜線とは全くイメージが異なり、女性的で別の山に来たような気分になる。丸い台座ノ頭の上に立ち上がった大きな入道雲が真っ青な空に映えて美しい。
 
 ガスのかかり始めた硫黄岳を登る。大きなケルンが登山道脇に積まれており、瓦のように板状になった岩が敷き詰められた斜面をゆっくり登って行く。コース終盤の登りではあるが、さほどバテることもなく20分ほどで広い山頂に着いた。登山者も少なく、2名の女性が昼寝をしてみえた。昨日、行者小屋手前で会った新潟県の2人だった。下りるのが惜しいとのこと。この気持ちがよく分かる。
 
 山頂の北東には巨大な爆裂火口があり、覗くのも恐ろしい。火口には近づかないことと注意書きがガイドマップにある。ガスの切れ間から天狗岳などの北八ヶ岳が望めた。北はいつか歩いてみたい。南には今日歩いてきた八ヶ岳の主峰が時折ガスの合間から見える。長い距離を歩いてきたものだ。たくさんのトンボが舞う山頂で、オープンサンドイッチとコーンスープのランチ。さわやかな風が気持ちいい。
 
 40分ほど山頂でゆっくりして、赤岳鉱泉方面に下山開始。山頂の避難小屋を見て西方向に岩場を下り、眼下の白くザレたオーレン小屋と赤岳鉱泉の分岐点を目指す。ガスで見え隠れする赤岳や阿弥陀岳を前に、分岐点まで下ると、峰の松目に続く赤岩の頭で新潟県の女性2名が手を振ってみえた。赤岩の頭まで登って、展望を楽しむ。彼女たちは下山して諏訪の温泉でもう一泊するそうだ。我々は行者小屋経由でテントもたたまなければならないので、2人とはここで別れて、赤岳鉱泉を目指す。
 
 分岐点まで戻ったところで、ハイマツの下にリンネソウのかわいい花を見つけた。初めて見る花だ。雲の消えた赤岳や阿弥陀岳を最後の見納めとして、シラビソの樹林帯を下った。よく踏まれた道であり、掘り割れたところもある。エゾゼミの蝉時雨の中、木漏れ日を踏んで単調な下りが続く。樹林帯でGPSが電波を捕捉していない。かなり下ったところで正面に赤岳などが展望できる場所があった。40分ほど下ってジョウゴ沢の橋を渡る。カイタカラコウの花を見ながら歩くと、すぐに大同心と小同心の展望地を通過。分岐から1時間弱で赤岳鉱泉に着いた。
 
 ノンストップで行者小屋への沢状の道を登る。ゆるやかな登りではあるが、さすがに疲れてきた。ヘリポートを見ながら登っていくと、谷の向こうでガサガサという音と同時に黒い獣が現れた。クマかと思ったら、白いヒゲの大きなカモシカだった。反対側には赤いメスのニホンジカがこちらを見ている。今朝、鳴いていたのは彼らのようだ。中山乗越に近づくと急斜面の登りになり、きつい。かなりのスローペースで昨日登った展望台の分岐点である中山乗越に着いた。後はゆるやかに下って小屋にゴール。予定よりも1時間ほど早く下りてきた。この先、まだ美濃戸口までの重装備の下りが待っている。小屋で缶ジュースを飲んで一息入れて、炎天下でテントをたたんだ。雨のときにテントをたたむのも難儀ではあるが、この暑さの中での作業もきつい。隣のテントの東京からみえたご夫妻は、赤岳を往復して、これから帰るところだった。
 
 パッキングして、小屋に別れを告げ下山開始。歩き始めてすぐに、小雨が振り出したので、川原を歩くところで傘をさしたが、雨はすぐに止んだ。登ってくる登山者と挨拶をしながら、歩きにくい岩の道を下った。美濃戸にかなり近づいた頃、後方から雷鳴が響き、本格的に雨が降り出した。濡れた樹林帯に雨のにおいが広がる。再び傘をさすが、樹林帯の中であり、ザックがやや濡れた程度で、美濃戸山荘に到着。雷鳴は聞こえるが、雨は止んだ。八ヶ岳方面は雲に覆われている。地元の方が10日ぶりの雨だと言われた。西日を浴びながら美濃戸口まで林道をだらだら歩いた。途中ショートカットの道があったので、ササの道に入った。雨に濡れたササでズボンや靴がベトベトになった。この道は行きにショートカットした道とは異なり、林道になかなか出ない。テープがつけられており、登山道であることは間違いないようだ。GPSで確認すると林道沿いに歩いている。雨に濡れたフシグロセンソウの花がきれいだ。
 
 林道に合流して行きとは違う分岐した道を歩く。ママコナやウツボグサに混じってネジバナのような花を見つけた。ネジバナにしては、螺旋が乱れているし、葉が全く違っている。帰って調べてみるとミヤマモジズリというランだった。車で美濃戸まで乗り入れなかったのでこの花を見ることができてラッキー。柳川を渡って、美濃戸口までのわずかな登りがさすがに辛かった。気力だけで登りきった。八ヶ岳山荘が見えてここで本当のゴール。5時の1分前に到着できた。よく歩いた。ワイパーにはさんであった紙切れに従って駐車料金を近くの管理事務所に支払い、樅の湯で汗を流して、盆の渋滞もなく帰途についた。
 
 八ヶ岳は何度歩いてもいい山である。昔の記憶はあまり呼び戻せなかったが、今回は夏山の面白さを凝縮した旅になった。クサリ場や岩場が多く、三点支持を守って慎重に通過されたい。ザレた道も要注意。阿弥陀岳は道が不安定で浮石や落石も多く、より一層の慎重な行動が必要である。今回の2日目は時間的な余裕が無かったが、できればもう1泊してゆっくりと歩くのがいい。次は北八ヶ岳が待っている。
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